共学驚愕学園

原作】 【撮影監督】 【作画
 実は、これを共同制作で作ると決まったとき、私は少し「引いて」しまったのです。どちらかというと、N氏の巨神兵のようなモチーフの原作の方が興味があったので、原作を読んだ段階で吾妻ひでお氏的なカラーのこの作品がどうなるのか、あまりいいイメージが持てなかった私は、同期の皆が1年で既に個人作品を仕上げていたこともあって、自分の個人作品を仕上げる方に重点を置いて、共同制作は興味のあった撮影をメインとし、作画の方は美術(背景)スタッフになって作画担当カットを少なくしてもらおうと思ってたのです。

 しかし、その思惑は少しずつ軌道修正を余儀なくされていきました。まず制作が動き出していった1月のある日、自転車でアパートに帰る途中に小学生の自転車と擦れ違いざまに少しぶつかったのです。その時はちょっとした打撲かなと思ったのですが、相手に怪我がないことを確認して自分で自転車に乗ろうとすると、右手人差指の形が少し変なんです。アパートまであと500m位でしたんで、とにかく部屋に帰ってはみたのですが、やはり普通の痛みではないんで、大家さんに頼んでタクシーを呼んでもらって、救急窓口の病院まで乗せてもらったと思います。診察の結果は骨折でした。人差指を数字の7の形にギブスで固定してもらって帰ったのですが、しばらくはまともに字も書けません。ちょうどテストの真っ最中で、ろくな回答を書けない言い訳だけをようやく書いたりしてました。美術スタッフを申し出ていたのは不幸中の幸いだったということで、3月頃までは撮影の指示以外の作業はろくに出来ないという状態が続きました。
 2つ目の誤算(作品にとっては後々の評価につながる要素ではありますが、当時の我々スタッフにとっては、それは誤算以外の何ものでもなかったはずです。)は、作画監督のW田氏による膨大な原画修正です。過去の共同制作作品においても、各人の絵柄の違いを少しでも少なくするために作画監督による修正はあったのですが、多くは止め部分の修正程度だったと記憶しています。しかし、W田氏による修正はもはや修正ではなく、書き直しと言った方が近いものでした。加えて、枚数が数倍に増えているものですから、担当にそのカットを仕上げるという意識は薄くなり、動画マンでしかないという状況になっていったのです。このことが全てではないのでしょうが、夏休みの頃からスタッフが脱落してしまうようになりました。そしてそのカットが次第に私など残ったスタッフに回ってきたのです。それでも、回ってきたカットはいい方で、中にはラインテストのフィルムを見たはずなのに、原画から書き直したカットもあったような気がします。
 そうしてカットの回収を始めたのが、夏休みも後半の合宿が過ぎた頃だと思います。その頃になるとW田氏の修正も幾分かはおとなしくなってきました。もはや前半のペースでは仕上げや撮影が終わらないのは明白でしたから、当然の成り行きです。
 作画の遅れは撮影にも影響が出ます。後半部分になると撮影に回ってきたカットにとんでもないものが入っていることも珍しくなくなってきました。引きのカットのはずなのに通常サイズのセルだったり、最後の数枚が見当たらなかったり。進行が機能していない期間がありましたから、当然と言えば当然です。幾つかは撮影でカバーしましたが、やはり不本意なカットも多く出てしまいました。あのスケジュールではどうしようもなかったというのが言い訳です。そして、いつの間にか私の個人作品はどこかにいってしまったのです。(それも未だに個人作品が完成していない言い訳です。)

 9月上旬に恒例の合宿がありました。最近こそなくなりましたが、仕事をするようになってからも土日などで空いた時間に何かできそうなものを持って帰ることが良くあります。合宿のように長期で出かけるときも同じで、この時は共同の担当カット全部と、個作の資料と、彩色用具一式からフィルムエディターまで、あらゆるものを持っていったと記憶してます。でも、実際には少しでも手をつければ良い方で、そのうちと思っているうちに帰る頃になってしまうという、小さい頃の夏休みの宿題と同じパターンになってしまうのでした。それでも、共同作品の背景はそこそこ仕上げたと思います。
 合宿が終わると上映会まであと2月もないわけですが、その当時でまだAパート(冒頭の教室の中のシーンの終わりまでがAパートなのです。)が終わってないのですから、如何に危機的な状況かは想像に難くありません。合宿最終日に反省会のようなものがあったのですが、自分では「反省することよりも、まだやることは山ほどある...」ようなことを言ったような記憶があります。これからの作業量を思うと自分でもどうなるのか正直怖い部分があって、実際にそういうことに言及する人もいましたが、少なくとも自分ではそのことを言ってはいけないと考えていたのです。しかし、現実にはやはり膨大な作業が待っていました。
 寝食を惜しんでという言葉がありますが、私も当時は寝る時間も食べる時間ももったいないと感じてました。一日が25時間あれば...というのがそういう状況での決まり文句ですが、どちらかというと、あんたが食事して自分の腹が満たされるのなら、頼むから代わりに食事して来てくれ...という心境でした。そんな中で、私が本来の撮影監督以外に担当したのはまず動画です。幸いだったのは、脱落するスタッフがいる一方で、私生活を犠牲にしても協力してくれる人がいたことです。既に一人で一カットの原画、動画から彩色まで分担する制度は限界で、協力できる人が協力できる分野で最大限の努力をしなければこなせない状況でしたから、ある人は空セルの用意を(当時、プロの制作会社でセル整理のバイトをし、余白部分の多いセルを貰って、アルコールでアニメックスを落として利用してました。)、ある人はトレスを、多くの人は彩色を分担するようになっていたのです。そんな訳で、申し訳ないなと思いながらも、この状況では甘えないわけにもいかず、他の人にセル用意やトレスをお願いして自分は遅筆ながらも動画を描いていった訳です。もともと私はきれいに線を描ける方ではなく、正直アニメーション向きの絵ではないのです。その上にこんな状況下では下描き同然の絵のままになってしまったカットもあって、トレス担当の方を悩ませてしまったと思います。あるカットは、演出のレイアウトと背景のみで、動きの指示もないまま原画を描かざるを得ないカットもありました。さすがにパースがおかしいと言われましたが、あの状況であのカットをあそこまで仕上げるのはあれが限界でした(あればっかりぢゃ分かんねーってばっ!!!)。
 撮影マニュアルにも記述したとおり、このころの修羅場は筆舌に尽くしがたい状況でした。連日の彩色、撮影、リテイク、その合間にAパートのアフレコ。下柚木の撮影所になったもう一人の撮影監督であるN氏の部屋で撮影しながら、隣棟のO氏の部屋で彩色をし、アニメックスが乾いたら撮影に回すという繰り返しで、それでも部屋の中だけでは並べる場所が足りずに、深夜のアパートの廊下にまでセルを並べていました。ですから、広げたセルに足が付いてしまうなんていうのは日常茶飯事でした。その頃は私も撮影は任せっきりに近くなってまして、何かトラブルがあれば行ける状況を確保して彩色に回ってました。色トレスをしている時間がなくなって、STP(Super Trace Paint)よーするに影部分を直接塗り分ける方法になってましたから、自信がある人がまず影を塗って、その後で他の人が残りの部分を塗るという段取りです。もはや動画にも色鉛筆による影部分の彩色がなく、どこが影なのか分からない人には分からないんですね。そんな状況で仕上げたと思っているカットですから、撮影してフィルムを見たら色パカで点滅していたり(そのままフィルムに残っているカットもあります)、撮影の方でも歩きのカットでリピート順を逆回しにしていたり(これもそのままフィルムになっています)、セーターを着ているはずがブラウスのままだったり(これも同様です)、そういう意味では、よく一つの作品として観てもらえるほどまでに達したものだと思います。セーターのカットのミスは、実は私の担当カットでもあったため私が引き担当をして、少なくとも他にシャッターとフェードインのシャッター調整と、合計で3人か4人で撮影したはずなんですが、誰もセーターのセルが乗っていないことに気が付かなかったんでしょうね。そう、ZCの蓋が閉まらなくなったのもこの頃です。

 この頃の食事は、とにかく作る時間も惜しいため、パン類が多くなってました。それも食パン。とにかく時間が惜しかった訳です。あとは眠気覚ましに柿の種。ピーナツの入ってないやつです。中には「モカ」を服用してた人もいました。もう撮影所(というか撮影監督のアパート)にいる時間の方が長くて、現像出しに行ったついでに自分のアパートに寄って、持つもの持ったらまた撮影所に、という生活がどのくらい続いたでしょう。撮影を外れていたため、撮り終わったのかどうかもわからないまま、気が付いたらもうあとは録音のみという段階になっていました。冷静に考えれば、撮り直すべきカットもたくさんあったはずなのでしょうが、録音しないと上映会に間に合わない状況だったのです。そうすると、私の役目はいつのまにか終わってました。上映会まであと10日位の時期だったと思います。そして、久しぶりに、本当に久しぶりに学校の生協で食事をしました。普通の、最も安いカレーなのですが、なんだか無性に懐かしい味でした。因みに、生協のカレーにこれでもかっていうほど七味をかけて食べるのが好きでした。
 上映会までの間は、パンフレットの表紙を描いたり、個人作品の録音をしたり、上映会の準備で忙しくしているうちに過ぎてしまいましたが、肝心の共同作品の録音にほとんど参加できなかったのは、良かったのか悪かったのかは今でも分かりません。ただ、聞くところによると、録音の方も彩色や撮影と同じかそれ以上に厳しい状況だったようです。とにかく、そうして「共学驚愕学園」は無事学園祭で上映することができたのです。そして、私はその上映を担当してました。確か、その録音スタッフの苦労が分かるとおり、上映時も再生レベルの補正が必要だったと記憶しています。当時は、この作品がC.A.C.C.の代表作と言われるまでになるとは予想だにしていませんでした。


gallery HANE / Animation / Kyougaku (2003.08.16)